書かずにはいられない、、『銀の匙』 中 勘助
最近、小説を読みまくっている。
出会う本、出会う本、それぞれに面白く、豊かな気持ちなる。
でも、この衝動は、きっといろんなことを考えないための逃避なのかもしれないとも思う。
その逃避した世界には、この現実にはないファンタジーが色鮮やかに存在している。
現実では考えられないような世界ではあるけれど、こちらの現実世界でも、とんでもないことあり得ない様なことが日々世界中で起きている。
そんなことを考えていると、どちらが真実の世界なのか、もはや判別ができなくなってしまう。
幼いころ見ていた世界を覚えているだろうか。
近所のお姉ちゃんが路地裏に咲くつつじの花弁を取ってその蜜を吸わせてくれたこと。
恐る恐る口に入れると、甘かった、
いとこと一緒に、近所の悪がきを木戸を締めて閉じ込めて、勝ち誇ったこと。でも、閉じ込めたところが自分の家で、中に入れなくなってしまったこと。
お母さんがいないことに気付いて、慌てて靴も履かずに外に飛び出して、ぬかるみに足を踏み入れたときの感触。ニワトリがコケーッ、コケーッと騒いでいた。
中勘助であれば、たったこれだけのことを、何ページにもわたって書き表してくれただろうに。
そのときの、空気、色合い、取り巻く世界、息づく命、内側に起きている心の動き、そこから見えて来る初めての世界、などなど。
『銀の匙』には、幼い目が見て、聞いて、感じたことがとてつもない表現力で描かれていた。
ものがたりの展開を追いかけてばかりいるボクの乱読は、この小説の世界にどっぷりと浸り、しばし前に進むことを止めてしまった。
ボクの幼いころも、こんな世界を見て、こんな世界を感じていたのだろうか。
そうあってほしいと、切に思う。
「人びとは多くのことを見慣れるにつけただそれが見慣れたことであるというばかりにそのままに見過ごしてしまうのであるけれども、思えば年ごとの春に萌えだす木の芽は年ごとにあらたに我らを驚かすべきであったであろう、それはもし知らないというだけならば、我我はこの小さな繭につつまれたほどのわずかのことすらも知らないのであるゆえに。」
主人公の少年が、繭を育てそれを観察し、その一生をくまなく見続けた様子の一節にある文章だ。
ボクたち大人は、この純粋な目をどこかに置いてけぼりにしてしまっているのかもしれない。